2020.6.

「お持ち帰りはできません」


 大学の同僚の M 先生は、毎週保育園に出向き子どもたちといっしょに半日を過ごされる。いつもは N 先生という男性の先生もいっしょなのだが、その日は M 先生おひとりの訪問となった。すると、駆 け寄ってきた子どもたちが口々に「あれ?N 先生は?」「N 先生今日は来んの?」と聞いてきた。仕方 なく「ごめんね。N 先生、お仕事がとっても忙しくて来れなかったのよ。みんなに会いたがってたん だけどね」と返事をされた。すると、2 歳の K ちゃんが、「ちょっと待ってて」と言って、部屋の片隅 で、平たいお手玉のようなものをふたつハンバーガーに見立てて、バックに入れ、「はい N 先生にあ げて」。N 先生へのかわいい差し入れに感動し、記念に写真を撮って大学に戻った。それから一週間。 残念なことに、N 先生はやはりどうしても外せない用があって保育園に行けなかった。すると、先週 お土産を作ってくれた K ちゃんが N 先生の姿を探し「今週も来れんかったん?」とがっかりした様 子。そのあと K ちゃんはプラスチックの大きな注射器と水薬の容器。牛乳 3 本にサイダー。そのうえ 「のりだけじゃけど」と黒いフェルトを両手でくるくる巻いた海苔巻きを巾着に。そしてその全部を バッグに入れ真剣な顔で持たせてくれた。二週間も続けて来れない N 先生に早く元気になってもらい たくていろいろ持たせてくれたんじゃないか。今回ばかりは実物を持ち帰って N 先生に渡したいと思 いながら廊下に出ると、「あ、それ K ちゃんのバックだ」と同じクラスの A くんが声を上げた。それ を見た担任の若い先生が「A くんも言ってるように、園のものを外に持ち出すことは禁止になってい ます」と K ちゃんの目の前で遮った。M 先生は「明日返しに来るから今日だけは持ち帰らせて」と頼 んでみたが、「前みたいに写真を撮るとかの方法で、K ちゃんの気持ちだけを持ち帰ってあげてくだ さい」と聞き入れてもらえなかった。仕方なくほの暗いろうかで、K ちゃんとふたり、バックから取 り出した注射器と水薬と牛乳と...ひとつずつを並べて写真を撮ったんだそうだ。その虚しさと言った らなかった。A くんはルール違反告発の意味で K ちゃんのだと言ったのではないと思う。A くんもこ の物語世界に上手に招き入れる方法はあったはず。注射もしてあげられない、薬も飲ませてあげられ ない、海苔巻きも食べさせてあげられなくて「気持ちだけ」持ち帰る意味などあるだろうか?その「気 持ち」の中身って一体なに? と話してくださった。

 子どもは現実の世界と空想の世界をごちゃまぜにして生きているわけではない。外から見ればあり 得ない世界を、その世界での密約を交わしたひととだけ本気で生きあうことができるのだ。二つの世 界を自由に行き来する小さな魔法のくつを管理という冷たい手で脱がせておいて「気持ちだけを持ち 帰る」などと言い繕っても、子どもの得るものは何もない。一度脱がせた魔法の靴は、もうその場所 で履かせることは出来ない。

  N 先生をいたわる K ちゃんのものがたりは、保育室の外へ持ち出される瞬間を K ちゃん自身が見 届けてこそ、ちゃんと終わることができたのになぁ。ただひたすらに子どもの心に寄り添うことの 大切さと難しさを見せてもらったできごとでした。

   




村中李衣


















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