2016.11.

「声に包まれるんだなっし〜」


 眼科の待合室に、赤ちゃんと3歳くらいの女の子を連れたお母さんがやってきた。

 まずは、問診票にあれこれを書きこまなければいけないのだが、これが、ひと苦労。赤ちゃ んはお母さんの背中でぐっすりこん。頭が後ろに反り返って、見るからに重そうだ。おねえち ゃんの方も、狭い待合室の雰囲気になれず、お母さんの体に、ぴたあっ、とくっついて離れな い。仕方なくお母さんは、長椅子の端っこに小さく腰掛け、ひざに置いた問診票の上に覆いか ぶさるようにして書き込みを始めた。この問診票、意外に書きこむ項目が多く、簡単には終わ りそうもない。

 そのうち、女の子が待合室の隅っこにある本棚に気づき、一瞬だけお母さんの手を離れ、絵 本をつかんで戻ってきた。「ねえ、これ読んで」。

 『三びきのやぎのがらがらどん』だった。「え?いますぐ?」とお母さん。女の子は、こく っとうなずく。すると、書き込み途中の問診票の上に置かれた『がらがらどん』を、おかあさ んは、そのまま、息をひそめるようにして、小声で読み始めた。小さいやぎのがらがらどんの 声は、なんともかわいらしい。いい感じだ。でも果たしてトロルは?と思うと、思いっきり声 を押し殺し、ひく?いすごみのある声で「だぁれだぁ?」。おかあさんは、立派に語り分けて いた。そして、ちゅうくらいのやぎのがらがらどん、おおきいやぎのがらがらどん、それに毎 回立ちはだかるトロル、どの声も、音量は限りなく小さかったが、次第に高まる緊張感や、凛 とした大きいやぎの精神や、トロルの激昂した感じがちゃんとその声に現れていた。す、すて き、と聞き惚れる。がらがらどんたちが山に登っていったところで、ようやくお母さんの問診 票書きが再開。すると、女の子は、目にもとまらぬ素早さで、ぴゅーっと『がらがらどん』を 返却。代わりに『ふなっしーのはなっしー』という、冗談みたいなキャラクター絵本を持って きた。あらら、こんな絵本どうするのかしら・・・と見ていたら、案の定お母さんも「え?、 こ、これを読むの?」女の子は、こっくり。するとお母さん、またまた問診票書きを中断し、 押し殺した声で、きっちり『ふなっしー』を読み始めたではないか。「キャー!!梨汁ブシャ ー!! ガブリ!」こんなカタカナ音だらけの脈絡のない絵本を、きっちり、何の偏見もなく、 押し殺したていねいな声で読み進めた。傍で聞いていた私の心の中でも、手抜きしないふなっ しーの動きが、鮮やかに舞い踊った。「はい、ばいば?い」と、お母さんが絵本を閉じると、女 の子は実に満足そうに、絵本を受け取り、本棚に返しに行った。いつのまにか、待合室の不安 から、彼女はしっかりと抜けだせたようだ。

 いい絵本、粗悪な絵本と、大人が区別することなく、今その時の気持に合わせて、子ども自 身がふさわしい出会い方を選んでいく。その力を信じて寄り添っていく大人に私もなりたいな ぁと、まだいっしょうけんめい問診票を書いているお母さんの横顔を見つめながら思ったので した。


村中李衣















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