2016.01.

「ちいさきことに」


 昨年末、岡山のアパートで、一年間お世話になった鍋とヤカンをみがいた。
クエン酸をぬるま湯に溶かした液をスプレーして、朝早くから、ゴシゴシゴシゴシ。

 週に3日半しか世話になっていないのだけれど、それでも、油っぽいよごれがいっちょまえについている。
なあんも考えずに、ひたすら磨く。
しばらくすると少しずつ銀色の光が、泡とスポンジのあいだから現れてきた。
鍋やヤカンのことを「汚れた」などというけれど、鍋もヤカンも、私が汚していただけで、少しも変わらずに、そのまんまで、そこにあったんだなぁ〜と、しみじみ。
有り難くて突然、まるごと抱きしめてしまった。

 山口の家の勝手口には、結構な大きさのコンテナが4つ並べてある。
3つは小松菜で、ひとつは冬霜に強いというほうれん草。
夫トラさんが、農園に野菜の収穫に行く暇も、スーパーに買い物に行く暇もないからと晩秋に種を撒いたのが、びっしりきっちり緑の新芽を伸ばしつつある。
「これ、でも、間引きせんといけんのやないん?」と聞いたら、「おう、そのとおり」と、屈託なく笑う。

 仕方なく、忙しい大晦日にも新年にも、私はコンテナたちの前にしゃがみこみ、へなへなっと絡まりあってる幼い茎と葉っぱを指先でより分け、間引き続けた。
間引かれたひょろひょろさんたちは、みんなぬるま湯で洗うと、シャッキーン。
しかも、小松菜のシャッキーンとほうれん草のシャッキーンは、細くてもちっこくても、茎の持ち上がり方、葉っぱのつや、ぜんぜん違う。
そのそれぞれのみごとな姿に、「あんたたち、立派なんやねぇ」と、こっちの頭が下がった。
頭を下げて、醤油をかけて、おいしく食べた。

 それでもって、間引かれた後のコンテナの方の様子はというと、こっちは、指でより分けられた衝撃のせいか、強風になぎたおされた野菜畑みたいに、しばらく情けない姿だったが、こっちも、2〜3日するとなにごともなかったように、シャッキーン。
わたしは始めからこうして生まれこうして生きていくのです、みたいに葉っぱをさわさわ揺らし始める。

 かなわないなぁ、と思う。
人間の経験や思索が、鍋やヤカンや小松菜やほうれん草に勝っているとどうして言い切れるだろうか。
ちいさくて、目立たない営みの中に、大きなことに繋がる大事なことがぜんぶある。
ちいさいから、目立たないから、気づきにくいだけだ。

 これって、「こどもと生きる」こととおんなじじゃないだろうか。

 お正月に童心社から届いた長谷川集平の『むねがちくちく』が出た。
鍋とも小松菜ともぜんぜん関係ない絵本だけど、小さくてなんでもないことをどう見逃さずにどう大事にできるかってこと、忘れちゃいけないって、そんな声が聞こえた。

 2016年の明けた今だからこそ、なんだ。


「むねがちくちく」

長谷川集平 作

童心社
¥1400+税













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