2015.03.

「患者の行進」


 2月半ばから甲状腺手術のために、大分県別府にある専門病院に入院しました。

「りえちゃん、忙しすぎたのよ。これを機会に少しはゆっくりして身体をやすめなさいね」
と、みんなに優しいいたわりの言葉をかけてもらった。
このことばは、間違っていない。
私もこれまで、同じようなことばで仲間を見送った経験がある。

 でも、だ。
しずかな個室、繊細な健康チェック、規則正しく差し出される食事、1日数回のゴミ箱回収と清掃、清潔なシーツ・・・
これだけの条件が揃っていて、溜まった仕事をしないでいられる訳がない。
手術の日の1時間前まで、持ち込んだパソコンで日頃の数倍の仕事をこなし、いい気になっていた。
ところが、それは手術までの4日間限定の有頂天だった。

 術後、全身麻酔の後遺症か、めまいと吐き気と頭痛の猛攻撃。
すっかりへなちょこになってしまった。
そこからのゆるゆるとした復活ロードは、病棟の廊下を歩くことから始まった。

 この病院の廊下はとってもきれいで幅が広いの。
そして、この廊下を朝となく昼となく夜となく、患者たちが胸を張り腕を降ってざくざく歩くの。
パジャマやジャージ姿で男も女も関係なく歩くの。
万歩計持って汗かくほどに歩く人も、おしゃべりしながら歩く人も、途中の長椅子で休憩しながらの人も、みんな歩くの。
手術終わって首に白いガーゼスカーフ巻いた人は「おう生還したぜ」って感じで歩くし、今日来たばかりで心細げな人もわけもわからずとりあえず歩いてる。
いつからこんな風習?が生まれたのかわからない。
特に病院側が推奨してる訳でもない。
看護師さんたちは、大行進の様を見て見ぬふりをしたり、小さく微笑んだり、行進の列の中から用のある患者を「ちょっといいかしら・・・」と遠慮がちにピックアップしたり・・・
どうみても、行進している間は患者が病棟を制覇している。

 私もこの行進に紛れ込み、手を振ってざくざく歩くことで、ずいぶんずいぶん、病気にこころをもっていかれずに済んだように思う。
空間に閉じ込められ病に押しつぶされる受身の感覚から解放され、自分の生きるペースが戻ってくる感覚。
回復の為の適度な運動というような外からの健康アドバイスとは縁遠い、自分奪還の歩み。
そこには自分とは異なる他者の足音も響き合っている。
それもいいね、それもありよね。
で、わたしはこのペース。
そういう風に自分の生きる速度を調整している感じ。
そういえば、片山健が描いた『どんどんどんどん』や林明子の『ぼくはあるいたまっすぐまっすぐ』も、こどもたちの生きる速度が足の裏から伝わってくる作品だったなぁ。
決して健康のためというような目的とは無縁なところに、歩く意味がある。

 この話をしたら、友人が「精神科の病棟でも患者さんたちはずうっと歩いてたなぁ」と話してくれた。
歩くことで回復されるものについて、ちゃんと考えてみたくなった・・・
ほうらね、もうまた仕事モードに入りかけてる。
懲りないねぇ。



村中李衣




どんどんどんどん

片山健(作)
文研出版
\1200+税


ぼくはあるいたまっすぐまっすぐ

マーガレット・ワイズ・ブラウン
坪井郁美(文)
林明子(絵)
ペンギン社
\1300+税













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