2011.07.

「気づけばその手があった」


 ひょんなことで、母親の病巣が発見された。
4次元ピンポイントの放射線治療を決断するまでに、わずか2週間。
まだ、自分の身体に起きた異変についても、
ましてや4次元ピンポイントが何たるかも、ほとんど理解していない母を、
有無を言わさず大きな入院荷物と共に鹿児島へ連れていったのは、
本人の深く思い悩む性格を考慮したせいもあるが、
さらにやっかいな性格を持つ父親に口を挟む隙を与えないためでもあった。

 発見が早かったおかげもあり、切ることも、抗ガン剤も、
正常細胞をも痛めつける放射線治療も、ホルモン治療も一切なしに、
おだやかに、治療は進んでいる。

 やっかいなのは、母の治療よりも、
母がいきなり傍からいなくなった父親との日々である。
すでに80歳を過ぎているが、超つくほど頑固で、おまけにプライドが高い。
いっしょに暮らす私の前で
「わしは何でも自分でできる。
 おまえに何もしてもらわんでも、わしにできんことはない」
を連発。
「食事ができたよ」
といえば、
「わしは自分で好きなものを買ってきて何でも食べることができる」
と答える。
「洗濯物を出して」
といえば、
「洗濯物ぐらい自分でわかったようにやる」
と答える。
母の見舞いに行くと言うので切符を手配して渡すと
「いちいちこねぇなことまでせんでも、なんぼでも自分で行ける」
と乗り換え等の説明を聴こうとしない。
そして必ずトラブルを引き起こす。
とにかく、最低3回は
「そんなこと言わずに私にやらせてよ。」
と頼み込まないと先に進まない。
面倒くさい。
手間がかかる。
それでなくても、仕事は山ほどあるのに…とストレスはたまるばかり。

 ところが、先日、こんなことがあった。
大騒ぎの末に鹿児島に出かけ、
母がピンポイント照射を受けているセンターの待合室で、
母の治療の終了を待つことになった父は、
初めてみる最先端の設備に気圧され気味で、
すっかりおとなしくなっていた。
ところが、治療を終えた母が待合室の方へ向かってやって来るのが見えると、
がばと立ち上がった。
そして、
(はやくこっちへこい。はやくはやく)
とでもいうように手招き。
そして、目の前に母が来ると、同じ掌で母親の背中を3回擦った。
自分には他にまったく何もできることがないという思いの中で、
精一杯母親の痛みを<手で察しようとする>行為に見えた。

(ほんと、「擦る」っていう字は手で察するって書くんだよねぇ)

 長く生きると、
謙虚になれと外から言われても父のような性格の人間には、
どうも無理らしい。
それでも愛おしく思う人に心から向きあおうとする時、
意地や傲慢さは自然に取り払われるのだなぁとしみじみ思った。

 人生に割り込んでくる思いがけない辛いできごとの中にも、
悪いことだけじゃない、
今まで見えなかった透き通ったちいさな光のようなものが、必ずある。


村中李衣













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