2017.9.

「入院」

 母が転んで救急車を呼びました。93歳の誕生日を祝ったすぐ後でした。骨折か!と思いきや大正生 まれは骨はシッカリ、単なる打撲と打った時の傷の出血だけ。でも痛くて歩くことも動くこともままな らず、そのまま療養とリハビリの出来る病院に入院することになりました。一ヶ月もしないうちに痛み もとれ、リハビリも丁寧に一人一人の状態に応じてのプログラムにメキメキ回復し、何よりいつもたく さんの看護師さん、介護士さん、理学療法士さん、同じく入院の患者さんが行ったり来たり、話したり、 見守ってくれたりが嬉しい様子です。行き来する人を目で追い、話しかけられればトンチンカンながら 愛想よく答え、私が見舞いに行くと名前は忘れていても「うーん、だれじゃろうか?」などとニコニコ と上機嫌。

 専業主婦だった母は、家族以外の大勢の人の中で暮らすことのない生活でした。静かなひょっとした ら孤独な時間だったかもしれません。でも、今は違います。いつも見守られ、声をかけられています。 言葉のやりとりが意味を持っているということは必要ではなくなってきています。

 生後六ヶ月くらいの赤ちゃんが子どもの広場 に来ました。お母さんの胸にしっかり抱かれています。 声をかけてみると、顔をこちらに向けジッと見つめます。私の目、口、また目、口。音の出る所を確か め、耳を傾けているように見えます。そのうち手足がバタバタ動き始めました。ちょっと嬉しい?私も 嬉しくて笑い顔になります。赤ちゃんもふっと笑顔に。

 今までの事をどんどん忘れていき、言葉の意味も忘れ自分のしていることも分からなくなる。でも、 赤ちゃんのように誰かが気にかけてくれ、笑い顔で話しかけてくれる。そのことが幸せな気分を作り出 してくれるのかもしれません。

 ある日、食堂のテレビから「故郷」の合唱が流れて来ました。そこに居合わせた何人かの患者さん達 が思わず一緒に歌い始めました。隣の母も女学生のような綺麗な声で歌っています。音程は確かなのに 歌詞は笑えるほど全くデタラメでした。理性で獲得した言葉より、感性で習得した音楽の方が深いとこ ろに留まっているのでしょうか。

 今日も「ただいまー」という私に「??はー?」という笑顔を見に行ってきまーす。




横山眞佐子













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