2016.04.

「地震」

 突然のけたたましい警報音。地震発生の知らせが携帯から発せられた。危険だという感情が沸き起こる。下関は震度4。この辺りは地震がほとんど起きず、揺れるという体験が無い。だからミシッという家の音と同時にグラグラと地面が揺れた時には恐怖があった。その時熊本では震度7。どんな恐ろしさだっただろうか。その後の惨事には心が痛みます。

  人類は無防備な丸裸で地上に生まれ、衣服や家やある時は武器などに囲まれて安全に暮らしているように錯覚している。みんな長い時間をかけて工夫し発明し、開発してきた。体験から学び実験し、研究してきた。なにかを燃やして火を手に入れただけではなく核の分裂でエネルギーも手に入れた。立派な建物も、ロボットも人工知能も作った。なのに地球の地面の下で起きている異変をどうにも止められない。宇宙には飛び出せても足元の揺れを収めることは出来ない。

  被災地の有様をテレビで、ネットで、リアルタイムで見ることができるのに揺れる中で身を寄せ合っておられる人たちになにもしてあげられない。よもやと思う場所が崩落したり、大丈夫と思った家が倒れたり。そのそばで立ち尽くし泣いている人たちに、そうならないように誰もなにもできなかった。命が一瞬にして奪われる。

  戦争や交通事故や病気はそうなる予測ができる。でも地球の何かがバランスを失い天変地異が起きる時私たちは無力。唯一できることは、経験から学び想像すること。阪神淡路の時、東日本の時、その場所に暮らして一瞬にして日常を無くされた皆さんが、二歩も三歩も前に歩いて行ける希望を持たれているだろうか?その手当は完全にできたのだろうか?

  今だに仮設住宅のまま暮らしている人、出荷出来なくなった牛を今も飼っている人達を置き去りにしたまま、消費税やTPPや憲法改正や原発再稼働を前に進めることが当たり前なのか?

  ヒトが人になっていく過程で、自分たちが地球上で生きている様々なものの中の一種にすぎないことを忘れてしまっている。忘れやすい生き物がその事を補完するために文字を作り書物を残したのではないか。読み、学び、考え、書き残す。そして共に生きるために見えないことを想像する力を身に付けたい。

  余震の中で考えた事。




横山眞佐子











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