2013.10.

「親と子」

 先日年配の女性が「兵藤さんのお嬢さんはおられますか?」と『こどもの広場』を訪ねてこられた。
その方から丁寧に白い紙で包まれたものを渡された。
「Yの家内です」と名前を名乗られて「ああ!」と気づいた。
Y氏は、9年前に亡くなった父の一番大切にしていた友人だった。
包みの中は父から彼におくった手紙やハガキ。
「私も年を取りました。夫が大切にしていたものを整理していたらこれが。二人ともあちらで楽しくやっていると思いますが、とりあえずお返ししようと・・・」と言われた。

 子どもは親を選べない。
もちろん親も子どもを選ばない。
そんな世界に一つの出会いをして、親子になったけれど、子育ては難しい。
親子の間に次第に深い溝ができることもある。
一緒に過ごしながら、互いのことがわからなかったりする。

 家族という入れ物の中にいると言葉で伝えようという努力をしなくなるものかもしれない。
心情を語ること、議論すること、希望や志を伝えること、そんなことは照れもあって、おろそかにされる。
いや、我が家がそうだったのかもしれない。
子ども時代はあっという間に過ぎ、思春期は親を踏み台にし、気がついたら老いてゆく親のそばでオロオロしている。
親が子どもを愛し、理解しようとすることは解かる。
しかし、同じように子どもは親をどれだけ理解しようとするのだろうか。

 父の出戻ってきた親友当ての手紙を「お父ちゃん私信を読んでゴメン、二人とももういないんだからいいよね」と言い訳しながら読んだ。
どの手紙にも、突き動かされるように友を想う気持ちが溢れていた。
会うことがほとんど出来なくなってもなお、ふとした時に言葉なくとも理解し合える友人への懐かしさがあった。
愛する仲間、生きて共にここに在るだけでいいと思える人とは、言葉を超えて生涯の関係が出来るのかもしれない。


  逢いたれば心砕けて口数の おおかりしこと夜半に羞しむ
  唐突に友を思いて濃く清き すぎゆきつこといまもかはらず
  純白の百日紅咲き海光り 豊けき書翰ありて秋なり    正登司


 ハガキや手紙を大切にしまっておいてくれたY氏と父が過ごした沢山の時間を想像しながら、当たり前だけれど、子は親のことのほんの一部分しか知らないのだと思った。



横山眞佐子











一つ前のページに戻る TOPに戻る