2013.01.

「新聞紙」

 中学三年生の時の担任であった松永先生のことは、大人になった今でも私の歩く道の小さな灯火のように思っている。
背の高い少し猫背の国語の先生で生徒指導もされていた。
だからなのか、クラスは生意気だったり、問題を抱えていたり、一筋縄ではいかない生徒が集まっていた。
先生はそんな凸凹の子供達自身が互いに支え合い、教えあい皆が少しずつ前に進んで行けることを目指されていたに違いない。
誰かがつまずくと子ども同士でなんとかするようにと。
だから放課後班の皆が居残りして明日のテストの予習をしたりしていた。
けして声を荒げることのない、いつも穏やかな先生だったから私たちは気が緩んだのかもしれない。
ある日絶対忘れてはいけない物を多くの男子が忘れてきた。
なんだったのかは覚えていないが、その時始めて先生が烈火の如く怒った。
忘れた男子を教壇の前に並べて座らせて「他の人の事を考えられない者はどんなに勉強が出来ても人間として情けない」と言われて、そこにあった新聞紙を丸めてみんなの頭を引っぱたいた。
パシ、パシ、パシ!
新聞紙だから痛いはずはないのだけれど、その音は叩かれてない私たちにも十分痛かった。
静まり返った教室でみなうなだれた。

 すると先生が突然「すまない。私は怒りの余り、君たちを叩いてしまった。悪かった。不完全な人間だ。二度とこんなことはしないから許してくれ」とつぶやくように謝られた。
口々に「済みませんでした」と涙ながらにいう男子と、うなだれる先生を見ながら、人が人を叩くということの心の痛みを知った。

 教室にいたものは皆、その痛みと後悔と先生を通して見た尊敬できる大人の形を胸にしたにちがいない。
卒業後、同級生は集まると松永先生の話しになる。
それぞれが先生からしてもらったことを大切にしている。先生は早くに亡くなってしまった。

 今、教育界は体罰問題で右往左往している。
親であっても子どもの人権を傷つければ虐待と言われる。
それなのに、学校では生徒の身体だけではなく心も傷つけても、「教育的な」という隠れ蓑の言葉を使って言い逃れようとする。
どんなに幼くても、人間には心がある。考える力がある。
でも、子どもであるがためにそれを表現し、抗議し、抵抗する力は持たない。
そして死を選ぶしかない程追い詰められる。
こどもに関わる仕事をしている全ての大人に子どもを描いている児童文学を読んで欲しい。
想像力のない大人には子どもに教育する資格はない。
松永先生、今私は机の向こうで90度頭を下げている人たちを丸めた新聞紙でひっぱたいて見たい気分ですよ。



横山眞佐子











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