2019.5.

「はじめましての季節に」


 心浮き立つ入園・入学シーズ。

 おなじみ岡山の奉還町通り。朝のアーケード街を、新学期早々遅刻だとせかせか歩いている と、向こうからぴかぴかの赤いベレー帽と紺の制服に身を包んだ(と言うより身をくるまれた) 男の子と式服姿のお父さんが並んで歩いてくる。のっぽのお父さんは、両手をポケットに突っ 込み、ぶぅらりぶうらり。男の子は、両手を大きく振り上げ、るるるンらららン。 ちょっとちぐはぐな感じの二人連れだったもんで、ついついそっちに目が行く。と突然、男の 子が蹴躓き、前のめりにバッタン。あぁ?、いたそうだ。泣くかな泣くかな?

 男の子は帽子の脱げた頭を振って、くいっと顔をあげた。その顔を一瞬くしゃっとゆがめ、 お父さんを見た。お父さんは、ポケットに手を入れたまま、じっと見つめ返す。数秒間、何に も言わない何にもしない時間が、二人の間に流れた。

 急に男の子がこくん。そして、もぞもぞッと体を起こし、それから、両手でひざのあたりを しゅうっとなでて、立ち上がった。お父さんはその一部始終を目をそらさず、見ていた。相変 わらずポケットに手を入れたまま。立ち上がった男の子が、もう一度お父さんを見上げた。す ると、お父さん、はじめてポケットから左手を出し、シュッと男の子の前に差し出した。その 手を男の子が握った。お父さんは、反対側のポケットから出した右手でちいさな赤いベレー帽 を拾い上げ、そのままふたり、手をつないでゆうっくりゆうっくり歩き始めた。

 お父さんが差し出した左手は、転んだ息子を助け上げる手ではなかった。自分で立ち上がっ た息子と男同士対等に結び合う手だった。

 さっきまで(何ぼんやりみとるん。さっさとポケットから手ぇだして、かわいそうな息子を 助けんかいな)と心の中でつぶやいていた私は、ちょっと恥ずかしくなった。 母親は抱っこで、なるべく子どもに荒々しい世界を見せないですむよう、柔らかな自らの胸 の中にわが子の顔をうずめさせるが、父親は肩車で大人になった自分の目線よりも高い場所か らの景色を子どもに見せようとする。

 今日という日、転んだあとに父さんと手を繋いで歩いた道のこと、この子はおおきくなって も覚えているかなぁ。ひろびろとした未来の日に、ふと誇らしく思い出したりして。


 肩車の上から見える屋根瓦は

 青みがかった灰色に沈んでいて、

 真新しい石板のようにきれいだ。

 屋根から上には、いつもふしぎな静けさがあった。

 どんな騒がしさも 屋根より上にはけっしてとどかない。

  長田弘「肩車」より(『記憶のつくり方』晶文社)




 




村中李衣


















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