2019.4.

「強きひと」


 乗り込んだ満員電車に、大きなバギーがあった。中には目のくりくりとした男の赤ちゃん。 1 歳前後だろうか。彼のママとママの友だちは、バギー近くの席に腰かけ、楽しそうにおしゃ べり。構ってもらえないことに何一つ不満のある様子もなく、赤ちゃんはゆったりおっとりと、 バギーに身を横たえている。そのうち、右足にはいていたちっちゃな靴のマジックテープを右 手が捕まえた。ペリッと言う音といっしょに自分の手の内からぶらんとぶらさがった靴を、不 思議そうに眺める。眺める。眺める。やがて、かすかに右手をひねってみる。そうすると、ふ りこみたいに靴が揺れる。不思議そうにそれを眺める。眺める。眺める。やがて、反対側にひ ねってみる。また靴が揺れる。揺れる。揺れる。まばたきもせず、その様子を眺めている赤ち ゃん。楽しいとか嬉しいとかそういう感情とは別の場所に立って、手の動きと靴の揺れの<関 係>というものに心を打ちこんでいる感じだ。かなりの時間を経た後、今度はその右手をゆっ くり口元へひきよせる。そうすると、ぷらんぷらん揺れながら、靴もついてくる。はずみで、 靴底があごにあたる。赤ちゃんは、その衝撃に目を大きく見開く。気づいたママが、「食べな いで」と笑いながら、息子の手を口元から遠ざける。こうしたふいの干渉に抗議するでもなく、 赤ちゃんは再びゆっくりと、手を動かし始める。そのうち、指の力が抜けたのか、するりんと 皮紐がすべり、靴はそのまま列車の床に転がった。ママが拾い上げ、もう一度、息子の手に握 らせた。はい、これでもうしばらくのあいだ、おとなしく遊んでてね、といわんばかりの、無 造作な渡し方だった。しかしそんなことを気に掛けるふうもなく、赤ちゃんはなにごともなか ったかのように、探索行動を一人黙々と続ける。靴が落ちる。ママ拾う。これが数回繰り返さ れた後で、ついに彼はこの不思議な物体が足にはめるものであったことを思い出したようだ。 体を起こし、ぎゅうっと突っ張った右足の先になんとか握った靴をはめようとする。うまくい かない。もう一度。もう一度。もう一度。何と静かな探求者だろう。そのうち、靴が私の隣に 立っていた女性の方へ転がり落ちた。ママは拾えない位置だ。女性が拾い上げてうやうやしく 赤ちゃんに差し出した。すると、彼は当然のようにその献上品を受け取った。しかし、数秒後、 ん?の表情。「何者だ?」と言わんばかりに女性をまじまじと見やった。自分だけの世界に他 者が入り込んだ瞬間だろうか。みつめられた女性は、たじたじしながら「こんにちは」。その 声を何事もなかったように聞き流し、孤独の王は再び靴との対話を始めた。

考えてみれば生まれて間もない赤ん坊ほど孤独に強い人はいない。外の世界に放り出された ことをまるごと受けとめるために全身全霊を注ぐ。さみしいとかだれかそばに来てとか言って いる場合ではない。この自分づくりを果たしてはじめて、他者にも出会っていく。 そしてさびしい、を知る。ごちゃごちゃこんがらがった愛のもつれに生きる前の、ひとりを生 きる厳粛さに触れた列車内の出来事でした。

孤独の王を「あかいひと」と呼ぶバジリコ出版の写真集、おすすめです!

 


村中李衣


















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