2017.1.

「木に」


 果樹園の十数本ある桃の木の枝打ちをした。ずっと気になっていたが、どうにも時間がなか った。というと、少しは木に愛情を持っているようにきこえるが、正直に言えば、ただの放り っぱなし。昨秋には、摘果もしてもらえなかった気の毒な桃の実たちのまぶれつく重さで悲鳴 をあげていた枝枝が、ぼろぼろで、。哀れ極まりないありさま。あの木もこの木も、もうバサ バサと枝を切り落とすしかなかったのである。

 寒くて今にも空が泣き出しそうな午後。地面に落とされた枝枝を集め、積み上げていくつか の山をつくり、火をつけた。生木はそれでなくても燃えにくいと聞いていたので、慎重に枝組 をし、こまめに種火をこさえて、四方から着火。しかし、燃えない。なんとしても、燃えない。 周囲から炎にすり寄られても、枝は、じ?んと、その熱に耐えている。時折、ぱちっと樹皮が はじける音がするが、そのぱちの音が連鎖して燃え広がることは決してなく、そこここで踏み とどまった木の芯が、じ?んと熱を拒む。

 そのうち、青白いけむりが、組んだ枝の隙間をよじりのぼって曇天の空に融け始める。

 風に乗り、けむりといっしょに、においもしめやかに流れ出す。そのにおいは、枯れ枝を燃 やした時の、木という永年の属性から解き放たれせいせいとしたにおいとは、明らかにちがう。 水と、脂が、その身から離れがたくある、生への執着のような重い匂いだ。

 そばにいたトラさん(夫)が、「死んじまったもんとは、わけがちがうなぁ」とつぶやいた。 ぽろぽろとその皮膚をこぼし、あるものは、菌類に身体を蝕まれ、老いさらばえた枝であって も、死んではいない。「生木」とは、「乾いていない」ということでなく、生きている木のこと。 夫と私は、ふたりして生きている木を葬っているのだ。

 次第にふたりとも前かがみの姿勢で、無口になっていった。

 幸田文は『木』の中で、えぞ松の倒木と、その老木の上に立つ若木の生死の継ぎ目に目を凝 らし、新旧の生命の通いあいの「ぬくみ」に触れる。そして「木というものはこんふうに情感 をもって生きているものなのだ」と語っている。

 手入れを怠った私たち夫婦は、救い取れなかった桃の木の情感を、今更のようにゆっくりと ゆっくりと突きつけられている。

 もう、燃えにくいからといって、途中で投げ出すわけにいかなくなった。 夫婦の会話は完全に奪い取られ、ただただ、燃えて逝く一本ずつの時間を見届ける。 気づいたら日は落ち、あたりはずどんと暗くなった。 暗くなっても、みえなくなっても、燃えて逝くいのちのつぶは、無くなることなく、生きているものに手渡した「情感」のゆくえを、とおくとおく眺めている。それは、人間も木もなん ら変わりがない。ぶるると身震いした。寒さのせいなんかではない。


村中李衣















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