2015.09.

「いのちのたび」


 友人とその息子はるくんが、夏休みを利用して、山口に来てくれた。

 小学3年生のはるくんとは、初めての出会いだった。
彼の全身には好奇心のアンテナが張り巡らされていて、いっしょにいると、こちらも自然にテンションがあがってくる。

 お昼過ぎ、洞窟目指してドライブしていると「おなかがすいたねぇ〜」。
お腹の中にすっからかんの洞窟ができているように、空っぽ感が響く声だ。
ようやく大正洞入り口でごぼう天うどんにありつくと、一口ずつ口に入れて味わう。
顎も歯も舌も総動員して「あぁ〜おいしいねぇ」。
空っぽだったお腹の洞が、出汁のよく出たつゆで、じんわり満たされているんだなとわかる声。

 そして、いよいよ、景清洞へ。
ヘルメットに懐中電灯を携え、真っ暗闇の洞窟探検。一番先を歩くはるくんの背中は、次第に大自然と自分との真剣勝負に挑む探険家のそれになっていく。安易にそばでじゃれあうことを許さない気配があった。
ところが、孤高の探検家は、一番奥の「探検はここまで」という立て札の前まで来ると電気を消した。
怖がることもはしゃぐこともなく、しばらく闇に身体を浸した後、何も言わずに私の右手をぐっとつかんだ。
少年の手でなく、ひとの手が、ひとである私の手と繋がった・・・そういう風に感じた。
生きあう者同士であることが、ぐっと胸に迫った。

 ところが、探検を追え、洞窟から、緑の苔むしたにおいが充満する光の方角へと戻っていく道、彼はゆるゆると9歳の日なたの少年に戻っていった。
私はその変容のさまにうっとりみとれてしまった。

 さて、夕方、しっかり心も身体も動かした後、夕食にお好み焼きを食べに出かけようとしたところで、彼は突然慌てふためいた。
「しまった、どうしよう、今から『ダーウィンが来た!』が始まるよ。ぜったいぜったい見たい。どうしよう!」半泣き状態だ。
 「いいよいいよ、じゃぁ、見終わってから食事に行く?それとも、テレビが見れる食堂に・・?」とつい解決策を提案しようとした私に、はるくんのおかあさんはきっぱり首を振った。
「それは、やめて」。
「いいじゃん、せっかくだから」と言うと「せっかくは、違う」。

 そして友人は「いい? 自分でちゃんと考えられるよね。みんなで考えて決めた予定だよね。その約束をなしにしても、テレビを見たいなら、そのことをちゃんと覚悟して、自分はどうするのか、決めなさい」。
それは、恫喝でも脅迫でも強制でもなく、彼を約束を交わしあった一人の人間として扱う声だった。
彼は、そのことばを深く受け取り、決してしぶしぶでなく、自分で決めてお好み焼きやへの道を選んだ。
湯気の上がるハムとコーン入りのお好み焼きをほおばりながら「あぁ〜おいしい」とその日をしめくくる声に、みんなが幸福な気持ちに包まれた。

 子育てから遠ざかっていた私は、「一瞬一瞬育っていく」いのちののびやかさと、それを大人の都合や感傷でいじりまわさないでいることの大切さを、久しぶりに思い出した。



村中李衣















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