2011.12.

「ちょっと待って、その笑顔」


 学生の作文だとか、履歴書だとか、なにかにつけて「笑顔」ということばが登場する。
特に世の中が寒々しいと、救世主のように「笑顔」が求められる。

 「笑顔がすてき」「笑顔がよく似合う」「いつも笑顔でがんばってる」。
でも、その笑顔神話ちょっと待って、と言いたい。

 先日、お店やさんで生後7カ月の赤ちゃんに出会った。
ついつい目があってしまう。

 で、はじめましての挨拶に「ぷく・ぷくぷくぷくん。ぷく・ぷくぷくぷくん」と、パ行の音をつぎつぎ繰り出し、尻あがりに明るく語りかけたら、にこぉ〜。
満面の笑み。

 調子に乗って、「どど〜ん・どぉ〜んどぉ〜ん。どどどどどぉ〜ん」と、お腹のそこに響く濁音をうねりを加えて繰り出したら、お母さんの腕の中で縦揺れに自分を揺らしながら、「ぼぼっ」「ぼぼっ」としきりに唇を動かして、音をはじき返してくれる。

 こうなると、もう大きいとか小さいとか、恥ずかしいとか体裁が悪いとか、そんなことはどっかへ飛んで行ってしまって、ふたりでただただ気持ちのいい音を身体の中にくぐらせもぐらせ、はじきだす。
何分でも何十分でも遊べる。

 で、私の目の前にいる赤ちゃんのこぼれんばかりの笑顔を見て、ハッとした。

 この笑顔、私達が人前で必死でご披露する笑顔、いわゆる社会的笑みとはぜんぜん違うな。
自分の身体の奥から湧き出る「快」そのものなんだよな。

 向き合った他者がおもしろいこと、笑わせるようなことをしてくれていることへのねぎらいと了解。
もしくはあなたを好意的に受け止めているというサインとしての笑顔。
つまりは「気配りとしての笑顔」が、大人になったら求められる。

 でも、人生最初の頃の笑いは、たぶんみんなこの赤ちゃん同様、自分の内側の感覚と地続きだったんだよな。
他人にどう思われるとか、どう思わせるとか、考えもせずに。

 外に向けてつくる笑顔に縛られ、自分の内側が硬くこわばってしまった若者たちに出会うことが、とても多い。
「無理して笑わなくてもいいんだよ」なんて、それらしいことを言うより先に、彼らの体内受信器をくすぐるような「音」「声」「リズム」をもって語りかけていきたいと改めて思った。
読みあいを勧めるのは、そんな意味もあってだったよなと、歳の暮れに、しみじみ振り返ったりもしているのであります。


村中李衣













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